第71回 歴史に学ぶ持続可能な組織作り

中小企業経営

「こんにちは、かんれき財務経営研究所の雄蕊覚蔵です!」第71回は「持続可能な組織作り」と題して、わずか20年ほどで勢いを失った平家、260年もの長きに亘って国を統治した江戸幕府、こうした日本の歴史を振り返り、現代社会における強い組織の作り方を考えてみようと思います(少々長文になりました)。

 

《ニューノーマルな経営様式》
新型コロナウイルス感染拡大の影響は、もう2年以上続いています。感染拡大防止に向けて、密を避ける等、以前はあたり前であったことの多くが制限されるようになったといえます。

例えば、会社の同僚たちと飲食店で食事やお酒を楽しむ機会は減りましたし、ソーシャルディスタンスを確保しなければならないため、コロナ前と比べてスペースあたりの売上も減少しています。外国人観光客の激減で大打撃を受けている業界も少なくありません。
このような状況に苦しんでいる経営者の多くは、早くコロナ前に戻ることを願っていると思います。しかし、ただ期待するだけでは状況は変わりません。もしかしたら、元通りの世の中には戻らないかもしれません。
それでも企業が生き残っていくには、何かしら手を打たなければなりませんが、経営者がコロナ前をいつまでも引きずっていては、現状を冷静に読み解き、新しい世の中につながる“次の一手”を考えつくのは難しいでしょう。コロナ前に戻ることを前提としてしまうと、「その場しのぎ」の中途半端な策しか思いつけないからです。
では、「不自由を常と思えば」ならどうでしょうか。現在置かれている状況があたり前なのだと思えれば、「コロナ前はこうだった」という呪縛から解放されて、「今の状況でできることは何か」を考えられるようになるはずです。
経営者たる者、状況に応じて気持ちを切り替え、前を向いて企業のかじ取りを行わなければならない――そんな気がします。

 

《平家物語「祇園精舎」》
平家物語(へいけものがたり)は鎌倉時代に書かれた軍記物語で、冒頭の「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。〜」という名文は広く知られています。
持続可能な組織の作り方を考えるうえで、最初に平家物語の「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」について見ておきたいと思います。
【原文】

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうかう)、漢の王莽(わうまう)、梁の朱忌(しうい)、唐の祿山(ろくさん)、これらは皆旧主先皇の政にも従はず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心も猛き事も、皆とりどりにこそありしかども、ま近くは、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝えへ承るこそ、心もことばも及ばれね。

【現代語訳】

祇園精舎の鐘の音には、諸行無常(全ての現象は刻々に変化して同じ状態ではないこと)を示す響きがある。
(釈迦入滅の時、枯れて白くなったという)沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。
権勢を誇っている人も長くは続かない、まるで春の夜のゆめのよう(にはかないもの)である。
勇ましく猛々しい者も結局は滅んでしまう、全く風の前の塵と同じである。遠く中国にその例を求めると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、これらの者は皆、もと仕えていた主君や先の皇帝の統治にも従わず、楽しみの限りを尽くし、他人の諌言をも心にとどめず、天下が乱れるであろうことを悟らないで、人民が嘆いていることを理解しなかったので、まもなく、滅びてしまった者たちである。近くわが国の例を調べてみると、承平の(平)将門、天慶の(藤原)純友、康和の(源)義親、平治の(藤原)信頼、これらは思い上がった心も猛々しいことも、皆それぞれはなはだしかったけれども、最近の例は、六波羅の入道こと前太政大臣平朝臣清盛公と申しあげた人の様子は、伝えお聞きするにつけても、心で(想像すること)も言葉で(表現すること)も出来ない(ひどい)ありさまである。

冒頭文で述べられている「諸行無常」、「盛者必衰」とは、仏教の教え。どんなに栄華を極めたとしても必ず終わりがくる、この世の無常を説いた言葉です。
作中で平清盛の義理の弟・平時忠はこう述べます。

此一門にあらざらむ者は皆人非人なるべし(『平家物語』第一巻「禿(かぶろ)」より)

【現代語訳】平家でない者は、人間でない。

これは朝廷の役職が平家一門と親しい者たちで占められていた“平家全盛期”だからこその発言。『平家物語』は、それほどまでに栄えていた平家が、やがて源氏に追い詰められて滅亡するまでの物語です。
天下を取った平家は、その後も引き続き国を支配するかのように思われていました。しかし、平家が勢いを持っていたのは、わずか二十年ほど。まさに「諸行無常」だった平家の一瞬の活躍を、『平家物語』では「滅びの美学」として描いたのです。

 

《平家物語に学ぶ四字熟語》
「諸行無常」・・・仏教の根本主張である三法印の一。世の中の一切のものは常に変化し消滅して、永久不変なものはないということ。
「栄枯盛衰」・・・草木が芽生えたのちに枯れていく様を表した言葉から転じて、人や世の中が栄えたり衰えたりする様子を表現、つまり急な変化を表した言葉ではなく、長い年月をかけながら栄えたり衰えたりする様を表現するときに使用
盛者必衰」・・・平清盛のときに平家は全盛時代を迎え、それを平清盛は満月にたとえて歌を詠みました。しかし、満月もその翌日には十六夜(いざよい)となり、少しずつ欠けていきますから、全盛時代にこそ、人は人生の「諸行無常」を感じるべきなのです。まさにこの平家の姿をよく表している言葉です。
生者必滅」は、文字通り生きている者は必ず滅びるという意味で、生命は永遠のものではないということを表しています。生きとし生けるものは、人間であれ動物や植物であれ、すべては生滅(しょうめつ)を繰り返すということです。逆に言えば、生命は生滅を永遠に繰り返すということですから、時間というものは永遠であるとも言えるかもしれません。
会者定離」も、文字通り、今会った人は必ず離れていくものだという意味です。

 

《徳川家康に学ぶ》
徳川家康は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉で、その人となりが説明されるように、まさに、“忍耐”の人でした。
しかし、忍耐を続ける中から、様々な“気づき”を得た家康からは、組織を導くリーダーとして学ぶべき点が多々あります。家康の言葉には、現代の組織論やマネジメントにも通ずるものがいくつも存在します。

「大将というものは 敬われているようで その実家来に絶えず落ち度を探られているものだ 恐れられているようで侮られ 親しまれているようで疎んじられ
大将というものは 絶えず勉強せねばならぬし 礼儀もわきまえねばならぬ
よい家来を持とうと思うなら わが食を減らしても 家来にひもじい思いをさせてはならぬ 自分一人では何もできぬ これが三十年間つくづく思い知らされた家康が経験ぞ
家来というものは 禄でつないではならず 機嫌をとってはならず 遠ざけてはならず  近づけてはならず 怒らせてはならず 油断させてはならぬものだ
「では どうすればよいので」 家来はな 惚れさせねばならぬものよ」

肝心なのは、リーダー自らが仕事に対する姿勢や態度、言葉遣い、覚悟を示すことで、「家来(部下)に惚れさせる」ことだというのです。家康は、部下たちに「このリーダーの力になりたい」と思わせることが、苦境にも粘り強く対応できる組織を作る秘訣だと教えてくれているように感じます。

家康は、強烈なリーダーシップを発揮した織田信長や豊臣秀吉とは異なり、「三河衆」と呼ばれた強力な譜代の家臣団を組織してのし上がっていった大名だといえます。

「多勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に動く」

これは、「人数が多いと数に頼り油断が生じて力を発揮できないが、少数であれば団結力が増して力を発揮できる」という意味です。人が多いとリーダーの目が届きにくいこともあって、「自分がやらなくても誰かがやってくれる」と考える人が少なからず出て、組織としての推進力が落ちてしまいがちになるということです。
それだけではなく、組織を構成するメンバーには、めざすべきゴールを示して、各々の役割も明確にすることが肝要だと伝えているようにも思います。自分のすべきことがはっきりしていれば、誰かがやってくれるといった油断は生じにくくなるからです。

「愚かなことをいう者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。でなければ、聴くに値することをいう者までもが、発言をしなくなる」

リーダーは、常にチームのメンバーから見られているものです。そのため、メンバーの意見には等しく耳を傾けるべきで、この名言は、それを怠ると「部下の意見を聞かないリーダー」というレッテルをはられて、せっかくの金言を聞く機会すら失してしまうということを意味しています。

過去の良き日々にこだわりすぎては中途半端な策しかできない

徳川家康は、幼少時代に織田や今川の人質として過ごし、三河を治める大名となってからも武田信玄や一向一揆に苦しめられ、数々の苦杯をなめています。
しかし、耐え忍ぶ経験から多くのことを学んだからこそ、天下を統一できただけでなく、260年余りも続く江戸幕府の礎を築くことができたといえます。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず

人の一生というものは重い荷物を背負って、遠い場所に向う道を行くようなものである。だから、急いではいけない。という意味です。長く生きればいきるほど、責任は増えてきます。家族が出来れば、その子どもを育てる責任。会社の重要ポストにつけば、業績向上をする責任。どんどん責任という名の荷物が増えてきます。そして、その道は逆戻りすることは出来ず、進むしかない。しかも、何歳まで生きるか、いつ死ぬか分からない場合が通常のため、とても長い道のように感じます。
そんな人生を歩む際に急いでもどうなるものでしょう?ゆっくりと生きた方がいいのではないか、というメッセージです。

不自由を常と思えば不足なし

急がずに人生という道を進むには、不自由が当たり前と考えること、「物事や人は思い通りにいかないのが通常」と割り切って、進むことで不満は生まれにくくなるという物事の考え方です。

こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし

心の中に何らかの「欲」が生まれた時は、苦しかった時を思い出すこと。
人には「欲」というものがあり、それは満たされてはまた新しい欲が生まれ、満たされないと不満になります。でも、欲に目がくらんでは「今ある幸せに気づかないよ」「ほら苦しかった時を思い出してみなよ、その時と比べたら満たされてないかな?」という問いを自らに投げかけた言葉のように感じます。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え

我慢することが無事に長く安らかに人生を送るための「基礎」になるもので、我慢せずに感情に任せて怒ることは敵と思え。という意味です。
長い人生を歩む中で「忍耐の大切さ」「アンガーマネジメント」の大切さを説いています。

勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる

勝利することは、あまり人に成長をもたらしません。逆に負けること、失敗することで「うまくいかなった要因」を自ら振り返り、次回はその要因をなくそうと努力することで成長します。そして、負けたことがない人間は、自分の課題や欠点がわかっていないため、今は良くてもいずれ痛い目に遭うよ という意味です。

おのれを責めて人をせむるな

「他責ではなく、自責の大切さ」です。他人や環境という自分ではどうしようもないことに責任を押し付けても自分の成長にはつながりません。「人は本人の意志のみで動く」からです。自責で考えることで、自分のまずかった行動、失敗につながった要因を振り返り次に生かせます。

及ばざるは過ぎたるよりまされり

論語の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を、家康なりに解釈した言葉だといわれています。
論語の方は「度が過ぎることは足りないことと同じくらいよくないこと」といった意味ですが、家康は「足りないことは度が過ぎるよりも優れている」と解釈を変えているのです。その理由は、「足りていない」と思うことで、もっと成長しなければならないというモチベーションが生まれ、常に緊張感を持って様々なことに取り組めるからだと考えたからかもしれません。
家康の周囲には織田信長や豊臣秀吉、武田信玄といった非常に優れた大名がいました。そのため、少しでも気を抜くと自家が滅ぼされてしまう危険を常に感じていたことでしょう。しかし、そのことを単なる不安で終わらせてはいません。
家康は、武田信玄が隣にいることを不幸とはとらえず、油断なく自分を励ます幸運だと捉えていたという逸話があるように、自らを鼓舞する原動力として置かれている状況を活用していたといえます。
また、自身と彼らを比べながら足りていないものが何かを常に分析し、自分や徳川家を強くするため、謙虚に学び続けていたようです。このような姿勢が最終的な勝利をつかめた要因の一つであることは間違いないと思います。
人間は、少しできるようになると驕り、油断してしまうこともあります。仕事をしていると、その油断から足元をすくわれることがあるかもしれません。また、現代のビジネスでは、スピードと結果を強く求められるため、常に自分を磨いて成長していかなければ、アッという間に取り残されてしまいます。
そうならないためには、現状に満足しないでモチベーション高く、上をめざす気持ちが大切でしょう。「及ばざるは過ぎたるより勝れり」は、そのことを忘れないための良い戒めになるはずです。

 

《江戸幕府がおよそ260年続いた理由》
徳川家康によって江戸に幕府が開かれ、1603年から1867年(もしくは1868年)までのおよそ260年間にわたり国を支配してきました。この期間は世界的に見ても驚くべき長さです(ギネス認定記録?)
上位の君主がその部下に対して領地支配を認めて、位を与えたうえで臣従を義務づける封建制度をベースとした「幕藩体制(ばくはんたいせい)」により、徹底した監視のもとで統治がなされました。「徳川に害をなすものは、どんな小さなものでも処理してきた。」といわれるほど、その管理は細やかで、厳しいものでした。
徳川家康は自身が征夷大将軍に就任した2年後に息子の秀忠に将軍職を譲り、徳川家の世襲による専制政治を世に知らしめました。
ではなぜこれだけの長い間、江戸幕府は国を治めることができたのでしょうか?
大きな理由として、以下の事柄があげられます。
・諸大名への厳しい監視体制の確立
・金銀銅の鉱脈や数少ない外国との貿易を掌握し、経済の中央集権を図った
・農民らの生活や貢納への積極的な介入
豊臣を打倒した後、元和偃武(げんなえんぶ)と称して武器を納めた平和な世の中を目指した徳川は、武力と経済をコントロールしはじめました。
諸大名への厳しい監視体制とは、例として「武家諸法度」の制定、「参勤交代」や「手伝普請(てつだいふしん)」などの軍役があげられます。手伝普請とは、大規模な土木工事を大名に命じるものです。
武家諸法度において全国の武士を厳しく取り締まり、参勤交代や手伝普請による土木建築工事を命じることで諸藩の予算を削らせます。そして、武力においても経済力、権力においても徳川に反旗を翻すことのないよう、入念な統治の体制が第3代将軍徳川家光の代に確立されました。
農民らに対しても、生かさず殺さずしっかりと年貢を徴収するためのさまざまな制限をおこない、年貢である米の生産以外に目を向けさせないよう、農民たちを貨幣経済から遠ざけようとしていました。このように、ある種の恐怖政治のような統治体制を維持することで、江戸幕府は長く続いたと考えられています。

 

江戸幕府はなぜ滅亡したのか》
徹底した管理のもと統治がおこなわれた江戸時代ですが、犬公方(いぬくぼう)とも呼ばれた第5代将軍・徳川綱吉の治世から、世相はゆっくりと変わりはじめます。
少しの綻びが徐々に広まるように、崩壊が進んでいきました。
年貢徴収を基本とする幕藩体制は整えられたものの、依然として貨幣経済は存在しており、幕府は農業中心の時代から商業中心の時代への転換にうまく対応しきれずにいました。
金銭的に余裕がなくなってしまう農民が増え、それに相まって、たび重なる飢饉が起き、不満が高まった農民らによる打ち壊しや一揆が増えていきます。幕府側も何代にもわたってさまざまな対策を講じましたが、成功したものはありませんでした。
こうして不信感が高まっていくなか、ペリー率いる黒船が浦賀に来航します。
軍事的な圧力もあり、1854年に「日米和親条約」を締結。さらに、1856年にアメリカ初代駐日領事として下田に着任したハリスは、将軍に通商条約の締結を強く要求。時の大老・井伊直弼は朝廷の許可なしに「日米修好通商条約」を結びました。
これにより江戸幕府はもちろん、経済も混乱します。
諸外国との貿易が盛んになるとその分国内の流通にも影響がおよび、幕府の財政は悪化しました。市民らにも多大な打撃を与え、国全体に他国を排斥せよという「攘夷(じょうい)」の兆しが強まります。
諸藩は、日本の植民地化を防ぐべく開国し、朝廷との協調運動を進めようとする「公武合体派」と、弱体化した幕府を打ち倒し、干渉してくる諸外国を排除しようとする「尊皇攘夷派」の大きくふたつに分かれ、何度も衝突しました。
坂本龍馬は第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に政権を朝廷に返し、朝廷の下で慶喜も加えた諸藩による連立政権の樹立を進言します。これを受けて慶喜は「大政奉還」を宣言しました。
その後、急進派公家の岩倉具視とともに主導権を掌握し、徳川抜きの新政府樹立のため「王政復古の大号令」が発せられました。これにより長く続いた徳川による江戸幕府は幕を閉じ、明治の世が始まったのです。

 

《歴史に学ぶ持続可能な組織作り》
日本は、紀元前660年に初代神武天皇が橿原の宮にて御即位された日から数えて建国2,682年になります。その長い歴史の中から平家物語の冒頭のくだり、徳川家康の遺訓等、一部を切り取り、歴史に学ぶ持続可能な組織作りを考えてみました。
これまでこのブログでも何度か組織について論じてきましたが、過去の成功事例、失敗事例を紐解くことで、より身近に感じることが出来るのではないかと思った次第です。

持続可能な組織作りのポイントを4つに絞って挙げてみます。
【其の1】何より経営者であるトップや人の上に立つ管理職の品格
経営環境は「諸行無常」、常に変化しています。どんな企業も「栄枯盛衰」、山あり谷ありが当たり前です。だから、常に先を読みながら次の打ち手を考えて先手、先手で動くことが必要なのです。「盛者必衰」、経営者に驕り高ぶりが見えると部下が就いて来なくなり、企業経営が継続できなくなります。

【其の2】少数精鋭(属人的な組織から仕組みで動く組織運営へ)
人数が多いと数に頼り、油断が生じて本来の力を発揮できなくなる可能性が高まりますが、少数であれば団結力が増して本来の力を発揮できるようになると思います。
人が多いとリーダーの目が届きにくいこともあって「自分がやらなくても誰かがやってくれる」と考える人が少なからず出て、組織としての推進力が落ちてしまいがちになるということです。
組織を構成するメンバー、特に経営幹部や管理者に対して、経営者はめざすべきゴールをしっかり示して、ゴールに辿り着くための各々の役割も明確に伝えて実行させることが肝要です。各自が自分のすべきことを明確に理解していれば、誰かがやってくれるといった油断は生じにくくなると思います。各自の役割を決めるのは経営者の仕事です。
ここで大切なことは、人に役割を持たせるのではなく、それぞれの役職に役割を持たせることです。異端児(スーパースター)だから、何でもこなせても普通のスタッフにはこなせない業務があるかもしれません。組織や組織体制に紐付いた役割は持続可能ですが、其の役割に就いた人は「生者必滅」「会者定離」の理のごとくいずれ別の人に引き継がれていくものです。

【其の3】ルールの明確化と管理体制の確立
就業規則をはじめとする様々な規定等を整備し、組織に属する者の行動規範を定め、周知・徹底することが大切です。組織としての統制を図るためには、決まり事を遵守させることは基本だと思います。
基本的なルールを遵守したうえで、自由闊達な議論、意見交換が出来る環境作りが必要です。
誤解しないで欲しいのは、組織に属する者を縛り付けるのが目的ではないと言うことです。企業として社会から認められ、必要な存在になること、これがお客さまや従業員を守ることに繋がると考えています。

【其の4】経営トップに意見する側近等の存在
経営者や経営幹部は、ガラス張りであり、一体感が醸成されてなければなりません。お互いに信頼し合い、無用な忖度をしないコミュニケーションがとれる関係性が構築されていないと現場スタッフの信頼も得られなくなります。
持続可能な組織として経営することは、経営者や経営幹部が常に同じベクトルで将来を見据え、課題等に対して日々対応に見直しをかけ続けることが必要なのです。
経営者と経営幹部は、自転車が倒れないように一緒になってペダルをこぎ続けることが大切です。

投稿者プロフィール

矢野 覚
矢野 覚
LINK財務経営研究所 代表 
1982年 4月 国民金融公庫入庫
1993年 4月 公益法人日本生産性本部経営コンサルタント養成講座派遣
2015年 3月 株式会社日本政策金融公庫退職
2015年10月 株式会社山口経営サポート(認定支援機関)入社
2019年12月 同社 退社
2020年 2月 LINK財務経営研究所 設立
2022年 5月 健康経営アドバイザー
2022年 7月 ドリームゲートアドバイザー
中小企業金融の現場で、33年間、政府系金融機関の担当者~支店長として事業資金融資の審査(与信判断)や企業再生支援、債権回収業務に従事するとともにそれに関する稟議書の起案・決裁に携わっていました。
その後、中小企業の財務責任者として資金調達、経営改善業務をお手伝いさせていただき、短期間で赤字体質の中小企業を黒字体質に改善するコトができました。
こうした経験を活かして、「財務の力でヒトとカイシャを元気にする」ために、小規模事業者・中小企業の皆さまのお役に立ちたいと考えています。

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